28/11/2025
<ふたつのふつう>
外来をやっていて、「どうですか?」と問うと「ふつうです」と返ってきます。「ふつうです」という言葉は外来でもっとよく聞く言葉の一つではないでしょうか。一位はおそらく「変わりありません」だとおもいます。「ふつうです」と「変わりありません」はお互い似た側面があるのですが、今回はより明確なので「ふつう」を取り上げたいと思います。精神科外来で出会う「ふつう」には2種類あると思っています。1つ目は固定的な「ふつう」です。これはあたかも定規の上にふつうという目盛りがあって、それを指で示しているかのようです。レストランのメニューで大盛り、普通盛りとあって、これにしてくださいと指差すときの「ふつう」です。ふつうというある固まった状態があって私はそれですという表現です。日常生活の中でこの種の「ふつう」にであうときは相手は自分とのやり取りを望んでいないのだ、いわゆる気のない返事であることが多いでしょう。精神科外来でも当然同じことが言えますが、(むしろそのほうが多い)診察では別の解釈をする必要も出てきます。固定的な「ふつうです」は患者が「生き生きとした現実との接触」が乏しい、または失っている所見と解釈できることがあるのです。この場合は心がゆさぶられるあまりふつうとは言えない「ふつうです」なのです。
2つ目の「ふつう」はいわば動的な「ふつう」です。「前回の診察からいいことも悪いこともありました。それらを合わせてみるとだいたい帳尻があっていると思います」というようなストーリーが透かし見えるような「ふつう」です。この場合は前者と違って生き生きとした現実との接触が保たれています。現実に繋がっているので、実際には絵に書いたような「ふつう」の日というのはないのでしょう。ただ合算してみるとどうやら帳尻があっているようだぞという感覚が、「ふつう」という判断の根拠になっているのです。このどうやら帳尻があっているようだという感覚は、別の患者さんだと「いろいろあっても手のひらに収まっている感じ」と表現される方もいらっしゃいます。帳尻があっている。手のひらに収まっている。など、こういったたぐいの感覚はとても健康的な感覚でメンタルヘルスの分野で評価するなら満点。理想的な「いいこと」であるということができます。いいこと、ラッキーなことがつづくことのほうが単純には最上と言えそうですが、手のひらからはみ出していると感じるまでになるとやはり居心地が悪いものです。人はおちつかなくなり、具体的には猜疑的になったり、利益を出し続けることにこだわって強迫的になったりするでしょう。
こういうわけで帳尻があっている、手のひらに収まっているという感覚はラッキーよりも「幸せ」に近いということができます。当然、「物質的に豊かなこと」よりも「幸せ」に近いということにもなります。一般的には禅語は難解なものですが、今日の文脈で禅語の「足るを知る」(知足)という言葉を引いてみると理解がしやすく深まります。「幸せ」って誰もが知っている言葉で、かつ憧れる状態であるけども具体的には定義しにくいというか、掴みどころのない言葉でもあると思います。しかし感覚的ではありますが「ふつう」、「人生の帳尻があっている感覚」「手のひらの上」「知足」これらの言葉は掴みどころがなく、すぐに何処かに行ってしまう「幸せ」の秘密に触っている言葉だと思うのです。理解の参考になると思います。
今回は外来でよく耳にする「ふつう」という言葉。気にもとめない人もいるでしょうが、改めて考えてみると、不思議な言葉で奥行きのある言葉であるとおもいます。気づき、発見もあったのでご紹介させていただきました。いかがでしたでしょうか。今回は以上です。