堤ヶ岡メンタルクリニック

堤ヶ岡メンタルクリニック 心理療法に力を入れている精神科クリニックです。精神科医・公認心理師の立場からあなたのお悩みに見通しをつけるお手伝いをいたします。ちゃんとやめていける安全な薬物療法を心がけています。

 当院は完全予約制の精神科、心療内科のクリニックです。完全予約制としましたのは患者さんの一人一人と落ち着いて話し合いを持ちたいからです。
 薬物療法の進歩で急性期の精神科疾患は非常に治りやすくなっています。しかし維持期や再発防止のことを考えると薬物療法だけでは心もとないです。そこで何らかの精神療法との併用が必要です。とくにうつ病をについては安定期の認知行動療法が再発防止に効果があることがわかっています。私は精神療法のエッセンスはアドヒアランス(患者さんが治療に参加していること)の維持にあると考えています。それには患者さんと時間と場所を決めて定期的にどっしりとあっていくことがどうしても必要だと考えるようになりました。完全予約制ということでご迷惑をおかけすることもあると思いますが、以上の理由がありますので、ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
 もちろん通院されている方の予約外の診療には対応いたしますが、電話連絡をしていただきたいのとある程度待っていただくことはご容赦ください。

28/10/2025

<自己肯定感と自己効力感>
ある方が面接中に「わたしは自己肯定感が低くて」という話をされました。自己肯定感を話題にされる方は時折いらっしゃいます。そういうときに私は「自己効力感」についてご紹介しています。自己肯定感と自己効力感は似ている言葉です。自己肯定感の方は「自信がある」に近いところがあり、これが強く働くといろいろ楽しく暮らせるとは思いますが、一部「根拠のない自信」というような部分も含まれているので場合によっては周りの迷惑になったり、自分で改善点に気が付きにくかったりします。またこの「根拠のない自信」は天分のもの、生まれつきの才能とも言えるくらいのものでバランスを意識しにくいものという印象があります。一方、自己効力感というのは「自分にはできる」という感覚で、やはり「自信」と関連していますが違いは実績を伴っている点です。どういうことかというと、あることを実行しようと計画を立てます→計画通り実行します→達成感を味わいます。繰り返します。この一連の実績の積み重ねで自己効力感は育っていきます。私個人の見解ですが、自己肯定感と自己効力感の関係は幸せとお金もちの関係に似ています。両者の間には論理の飛躍があり、お金があっても幸せでないこともあります。しかし一般的にはお金があったほうが幸せというのも説得力がありますよね。こんな関係に似ています。またお金と一緒で自己効力感も貯まるものなので、自己効力感に注目するほうが現実的で扱いやすい目標になると思います。
 精神療法の枠組みの中で話をしますとまず大きな目標を決めます。その目標につながる「達成可能な目標」を決めます。それを課題として行動してもらって次回の面接に報告してもらいます。課題が達成できれば、難易度をあげた課題を設定し、次回までの新課題とします。達成できなければ難易度を下げて次の課題とします。ここでのポイントは「達成可能な目標」を設定する能力です。自分自身でで目標を決めることが重要ですが、大抵の方はここでつまずくので治療者とよく話し合って目標設定をするのが良いと思います。治療者側の援助のポイントとしては、①クライアントが課題を十分イメトレできているか、②目標を自分以外こと(本に書いてあった。ヒトと比べて・。テレビ。など)で決めていないか、以上2点をを留意してみてあげると良いと思います。また課題に失敗したクライアントが「次はうまくやります」とか「今回は〇〇のせいで・・」といって課題の修正をやりたがらないケースもよくあります。もちろん修正がなくてもいいこともあるのですが、ギャンブル負けと一緒で頭が熱くなっていたり、意固地になっていることも多いので、私はいつもより丁寧に話し合いをすることにしています。失敗時の行動はその人の基本的な振る舞いに関係していることが多いので、そこでの行動の変化は大きなチャンスともいえます。話を元に戻しますと「達成可能な目標」を設定することができて実際に行動、達成し・・という実績をつみ重ねていきますと自己効力感が育ってきます。すると全くの初めてのことでもうまくいきやすくなります。応用範囲がひろがるやり方です。様々な方に勧めることができます。今回は自己効力感についてお話しました。

10/10/2025

<こども劇場>
診療の中でメインテーマと別の相談を受けることがあります。その中で圧倒的に頻度が多いのが「子供についての相談」です。私も子供がおりますから関心が高いのはよくわかります。子供さんを観察するうえで大事なのは多様性です。学校での子供、家での子供、お父さんの前での子供、お母さんの前での子供など、いろんな振る舞い(性格)をする様子が見られるならば良いサインと考えていいでしょう。子どもはまだ自分のスタイル(性格)に固まっていない。こだわりが生じていない(自我)のでいろいろな役柄ができるということができます。友人との間ではこの役柄、父親との間ではこの役柄という風にです。さながら複数のお芝居を並行して興行しているような印象です。こころにはこういう多様性を好む、または色々な役柄の可能性を広げようという部分があって、子供の頃はその影響がわかりやすいです。(当然大人にも働いています。)これが10歳を超えてくる頃から一つにまとまる力が強くなり始めます。それでも大人に比べるとまだまだ自由です。ですから色々な実験的なお芝居が繰り広げられます。その中で代表的なお芝居の一つは「父子の物語」です。私も含め、世のお父さんたちはこの演目の「こども劇場」に巻き込まれます。なかには違和感なく「こども劇場内の父親役」を狂ったように演じているお父さんもいらっしゃるでしょう。迫真の演技!?で力比べや相撲をとったり、子どもに試練を与えたりしていると思います。一方子どもの変化に違和感を感じるお父さんは役に入りきれず戸惑いを感じていると思います。その時にはこども劇場にまきこまれていることを意識しつつ、<こども劇場内の父親の役割、役柄>を引き受けるつもりでいると良いと思います。お父さん側にも効能があります。というのもおとなになると自分が強すぎてなかなかスタイルを崩すことができません。こども劇場に積極的に参加することで、張り合ったり、エラそうにしたり、これまで生きてこなかった父親像を体験できる可能性が広がります。大人であっても舞台が整えばこころは子供の頃と同じように広がることを好みます。こども劇場内の出来事なんだと思えば自由に楽しめるでしょう。
 こども劇場で行われる劇を参加しながら楽しむには<昔話を知る>ことが役に立ちます。なぜならこども劇場は子供の心の発達を目的に起こってくることですから、それほどたくさんのバリエーションがあるわけではありません。ある程度の雛形が存在しています。しかもモデルとなっている元ネタは昔話という形で世の中に出尽くしていると言っても過言ではないでしょう。今回例に上げた「父子の物語」であればエディプスの物語が有名ですし、父娘であれば青ひげなんていう怖い話も参考になります。たくさんの昔話(と児童文学)に触れていると眼の前でおこなわれているこども劇場は何かしらの物語のアレンジであることに気がつくと思います。(子どもたちがこれらの物語を予習しているということは絶対にないのですが)劇のあらすじや展開がわかれば、自分の役柄もわかるし場合によっては自分なりのアレンジを加えてみてもいいでしょう。こういう積極的な参加は子どもたちには大ウケです。以前お話した遊びの空間を維持しながら劇が展開していくことができれば理想的です。どれだけの数の演目かわかりませんが、ひとしきり父子の物語が演じられたあと、ふとあなたとお子さんの個別の人間関係が定まっているはずです。その時お子さんはもはや〇〇君(名前)としてあなたの前に立っており、このあたりが心理面から考えての子育ての終了地点と思われます。

26/09/2025

<内容と形式>
先日、草津で温泉落語を見てきました。落語というのは子供の頃テレビで見ることはありましたが、生で見ることは滅多にありませんでした。ですので比較的手軽に触れる機会があるのはありがたいことです。私は職業的に人の語りをよく聞く機会がありますので、ついつい比較するようにききますと噺家さんの語りというのは大変わかりやすい、聞きやすい。ということに気がつきました。聞きやすいというのははっきり聞こえるということではなくて、情景が浮かびやすいということです。その理由は主語がはっきりしているからだと思いました。特には演目の最中、「わたしは」とか「はっつあんは」とか主語をつけて話すわけではありません。しかし「上下(かみしも)」という技法によって主語を際立たせているようです。具体的には喋る人が変わると演者の首の向く方向が変わります。客席に向かって左が上手、向かって右が下手といい、目上の人に話すときは上手をむく、目下の人に話すときは下手を向くとルールが決まっているのとのことです。「上下」のルールは他にもあって、身分を表したり、家の中と外の区別を示していたり多岐にわたります。こういうルール、形式がしっかり決まっている事によって、初めて聞いた話でも複雑な人間関係がイメージできるようになっています。診察に来られる人たちにも話がわかりやすい人とわかりにくい人がいます。中にはわかりにくい事を気にして「なんて言ったらいいか・・」と躊躇する方もおられます。そういうときは形式を整えるように聞くと良いです。「それは誰が言ったこと?」「その時どう思ったの?」など少々野暮に思えてもいいので聞くようにしています。初学者のころは会話の流れを途切れさせてはいけないとおもって、わかりにくいなぁと思いながらも黙って聞いていることが多かったのですが、実際はイメージしにくいところは聞くことのほうが利益が多いです。患者さんの語りというのはそのままでは未完成の原稿みたいなもので私たちは編集者となり一緒に語りを完成させていくという気持ちで取り組むとやりやすいでしょう。治療者との間で完成した語りは再び患者さんに取り込まれ、以前よりはっきりした構造を持ってイメージされます。このあたりのことを感覚的にいうと「スッキリした」ということになります。
 形式を整えるといった時、一番始めやすいのは主語をはっきりさせることです。自己トレーニングとしては主語を気にしながら書くことを勧めています。取り組みやすさでは日記を書くことが適当かと思います。ある方には自分を赤、Aさんを黒というふうに主語によって色を変えてもらうことも提案しました。流石にここまでしてもらうと構造が立ち上がって来るように感じられ、格段にわかりやすくなりました。他者にわかりやすいということは本人にも理解しやすい(スッキリしやすい)ということになります。その方にはトレーニングと割り切って自主的にこれを続けてもらっています。ちょうど落語の「上下」の練習みたいですね。その他の形式に関わる事柄としては5W1Hなんていうのもあります。小学校のときに習ったことがあるだろうと思います。いつ、どこで、だれが、何を、どのようにと言うやつです。精神療法の一つとしてこれらを整えながら語りを聞くのは大変有用ですが、そればっかり気にして聞き返していると揚げ足取りのような印象になってよくありません。程々にしておきましょう。今回は以上です。

16/09/2025

<2つの便り>
 今年の夏は暑さが格別に思います。そんな状況で不眠や食欲の低下を言われる方がおられます。これらは主には精神科の領域ではなく、そのことは患者さんも十分わかっておられます。そのうえでなにかできないかなという時、いわゆる身体科のような相談を受けた場合には私は漢方薬を選ぶことが多いです。
 ある方は精神科的には一山越えたところで今は落ち着いている方ですが、食欲がないという話をされました。舌を見ると(漢方薬を選ぶ時舌の状態を診察します)色が薄くむくんでいました。小便の色を聞くとそんなの見たことないとのことでした。飲水の量を聞いてみると「テレビで一日2L以上飲むようにと言っていたので」というのを真面目に実行していたということでした。<2Lというのが足りないときもあるし、多すぎることもあるよ。おしっこを観察して透明なら飲み過ぎだし色が濃かったら足りないというふうに判断しましょう>と話しました。今日のタイトルは2つの便りですが、1つ目の便りは小便です。2つ目は言わなくてもわかるかもしれませんが、そう大便です。このおしっこと◯んちのことに「便」(たより)という字を当てた先人の経緯はしりません。しかし実際には2便は毎日とどくあなたの体からの報告書となっています。健康に気を配るなら注目しない手はありません。小便ですが回数もですが色も注目しましょう。朝起きたて、帰宅時それぞれ違うはずです。すぐに判断に飛びつかず観察を重ねて自分のデータを知っていきましょう。私の例ですが、この夏はエアコンの調節を「小便が透明だったら弱くする。色が濃かったら強くする」というように、、もちろん飲水量も加味して調整していました。エアコンは体感だと強く使いがちなので、「心地よい」より少し暑さを感じるほうが体が動きやすいことに気が付きました。こんな感じでデータを生活に活かすと良いと思います。大便の場合も同様で色、形、長さなどよく見るようにします。食べ物との関係も意識します。昔我が家で奥さんの好みで白米に玄米が混ざっていた時期があってその時の便は今とは違っていました。その変化にひとりで感心していました。ネットやテレビの情報は平均であったり、大勢の人々にとっては正しくても自分、個人についてはさほど当てはまらなかったりします。自分の2便については普段から観察して生活に活かしましょう。昔、ベテラン医師に「精神科は寝れて、飯が食えて、便がでてればなんとかなる」と言われたことがあります。これは精神科の療養病棟の話ではありますが、難しい社会の話を抜きにして、素朴ないきものとしての平穏に注目するなら睡眠、食、2便は普段からもっと関心を払うべきでしょう。<社会的な自分>から<いきものとしての自分>に重心を移すとずっしりと腹が据わる感覚が得られるでしょう。
 今回は2つの便りというテーマでお話していますが、次にお話したいのは「便り」というスタイルについてです。むかしの便り、いわゆる手紙のやり取りを考えますと返事を書いて次の便りが来るまでの間、待たなければなりませんでした。気にはなるけどもジタバタしても仕方ないから、いまは横においておこうということで間があく。この待つという行為がとても重要になります。いま世の中はどんどんスピードアップしてきてこの待つということが難しい世の中になっています。しかし少なくても睡眠、食、2便の3つに関しては「便りを待つ」という<姿勢>が大切に思われます。逆にこの3つへの悪い態度は「コントロールしよう」とする姿勢です。睡眠を例にとりますと、睡眠の環境をコントロールすること(清潔な下着や寝具、明日の準備をするなど)は存分にやったらいいですが、睡眠自体はやってくるのを待つことが大事です。やってくるのをお迎えする姿勢ややってくるのを邪魔しないという心持ちが一番良い結果につながります。種まきなんかもそうですね。土作りをしっかりして種をまいたらあとは待たないといけません。我々の本業の精神療法も待つのが仕事のようなことがあります。理屈はあっていればすぐに答えが出ますが、こころは理屈だけではできていないのでたとえ出た結果が同じであったとしてもそれには時間がかかります。見守りながら待つことが重要です。
 今回は2つの便りということで毎日の2便の様子を観察し積み重ねて健康に活かすこと。便りを待つようなスタイルのほうが健康につながりやすいこと。以上のお話をさせていただきました。

01/09/2025

<ジャッジはしない仕事>
 裁判員制度が始まったときにある心理師の方が、自分は選ばれた通知が来たとしても辞退するということを公言していました。私は確かに厄介事だし忙しい中で辞退したいのはわかるが、それだと制度自体が回らないのではないかと考えました。その方の次に続く言葉が「だって私達の仕事ってジャッジすることを一番離れたところにある仕事じゃないですか」でしたので私はハッとしました。その時のことを今でもよく覚えています。私は精神科医ですしこの方は心理師です。一般的には専門家なわけです。当然の流れとして日常的にジャッジを求められます。「私は悪くないですよね」とか「夫の方針と私の言い分はどっちが正しいですか」「私にはわからないので先生にきめてもらいたい」などです。
 意外かもしれませんが心理療法家が真摯にその仕事をしようとするとき、ジャッジをしないことからはじめます。ジャッジをしないというのは、ジャッジを嫌がる、アンチジャッジとは違います。非日常的な意識の持ち方という意味です。日常の生活ではジャッジをしない態度というのは成り立たないですから特別に時間と場所を限定します。すなわち<診察室内で><決まった時間>で、<ジャッジしない空間>で、話をしましょうというのが、理想条件での心理療法家の仕事なのです。日常の感覚では得と損とか正義と悪とか加害者と被害者とか分けて考えます。反対に分けないと話が進みません。法律はジャッジのするための規範です。社会の中での出来事です。テレビで判決のニュースを見たことがあると思います。勝訴という紙をニッコニコで出している側とくやしそうな顔をしている側と映ると思います。つまり問題は解決していないのです。我々心理療法家はこころの世界での解決(といえるのか)を目指すので話を聞くとき社会的なジャッジの機能を少し横においておきます(手の届く範囲ですが)。つまりいじめの問題を例に上げると被害者と加害者の区別もゆるく捉えます。もちろん共感と言うのが大事ですから、クライアントが被害者なら自分が被害者の気になって聞いている部分もあります、ありますがどこかで「被害者も加害者もおなじ<いじめという舞台>にあがっていて、役どころが違うだけだ」ととらえている。ジャッジをしない態度で話を聞いているところがあると思います。どうしてそんなことをするのかというと、こころの深いところを見つめていくと自他の区別が曖昧になってくる。そういったジャッジがゆる~くなってくる性質があるのがわかっているからです。想像しやすい例としては抱っこされる子供と抱っこする母親を上げてみます。ともに<抱っこを>経験しているのであって、子供はこの抱っこをどう体験しているかとか母親として我の子の抱き心地はどんなかとか考えていないと思うのです。あえて区別を入れるなら、子供は抱っこされるのと同時に母親を抱っこすることを経験し、母親は子供を抱っこする体験とともに自分が抱っこされる経験をしているといえると思うのです。ややこしい説明になりましたがこころは深いところに行くと自他の区別がゆる~くなります。ですからこころを扱うときはジャッジをしない態度で備えていないと仕事が失敗するのです。こういうわけですので心理療法家はジャッジと一番離れたところにある仕事なわけです。私の場合は精神療法家のほかに精神科医という肩書もあり社会にだいぶ組み入れられてしまっています。すなわちジャッジの世界です。昔は心理師の方が自由に見えて羨ましかったものですが、公認心理師制度が始まったとき、内容を見てみるとだいぶ社会に組み入れられる内容となっていたので、不機嫌な仲間たちをみてはにやにやしていました。社会的な解決はともかく、こころの世界の解決(救済の印象もある)はジャッジしない態度がキーです。それでもしっかり悩みは乗り越えられます。それをしっかり知っているのが精神療法家です。今回は以上です。

26/08/2025

<精神療法と遊び>
精神療法と遊びは深い関係があると聞いて、皆さんはどう思われますか。たしかにそうだと思われる方もいるかも知れないし、遊び半分でなんて不真面目だと眉をひそめる方もあるかもしれません。実際に遊んでいる子どもたちを見てみると、暇つぶしとは本質的に違う事に気が付きます。とても真面目に遊んでいるのです。真面目というよりも夢中で遊んでいると言い換えたほうがいいかもしれません。この夢中というのが重要で、精神療法においては、自由画でも箱庭療法でも夢中になるということがセラピーの成功の鍵を握っています。以前、トリックスターについて話題に上げました。トリックスターをはじめとした心的な機能は通常の意識下では活動が制限されています。そういう状況ですので、<意識>が夢中になっている隙をついてそれぞれが暗躍ができるようになるわけです。この「暗躍」は意識にとっては「統合」を危うくする異質なものですが、だからこそ硬直した状況を破る新風を入れてきます。面白いことに遊びにおいてはこの危うい「統合」がかえって「夢中」の継続の条件を担っているように思われます。想像してみるとそうだと思いますが、遊びではすべてが思い通りになると途端に遊びへの情熱が冷めてしまいます。適度にアクシデントがあることが面白さであり、危うい「統合」が遊びが継続する条件になっています。
 セラピーではクライアントが夢中になるかどうかが重要であるという話をしました。しかし精神療法を実践された方はわかるかもしれませんが、実際にクライアントが夢中になっていくには時間がかかります。相当数のケースで夢中になる前に中断してしまうのではないでしょうか。これが導入の難しさです。一方遊びでは呆れるくらい導入がスムーズです。見知らぬ子ども同士が公園で出会って、ろくな自己紹介もせずに遊びが始まるケースを見たことがあるでしょう。この違いは遊びにおいては、遊びの空間とも言うべき特別な現実性を持った空間があるのです。想像してみてほしいのですが、あなたが一人で砂場の横に座っていたとして、一人の子供が砂団子を差し出して、「お団子どうぞー」と言ったとします。おそらくあなたはノータイムで「ありがとーもぐもぐ、おいしー」と応じるのではないでしょうか。子供もあなたも団子が砂であることは十分わかっています。重ねて、いくら子供でも砂の団子が食べ物でないことはわかっています。それでもなお遊びの空間では十分にお団子である現実性を持っています。また自分のつくった団子が相手の口のあたりで崩されて地面に落ちてしまってもそれは「食べられた」のであって、十分報われたと感じる事ができるのです。この虚構(嘘)であるとわかっているけども強固な現実性が遊びの空間の特徴です。それなのでそこで経験したことは十分に実体験として感じられ、本人の成長の糧とすることができるのです。またほとんどすべての人がその空間に誘われていく肌感覚をすでに知っているのも遊びの導入がスムーズな原因です。このためほとんど言葉を必要としません。一方セラピーでは遊びの空間にちかい、いわばセラピー空間が必要なのですが、いかんせんクライアントにはその経験がありませんから、非日常的な空間であること。夢中になっても許さされる空間であること。時間が限られていること。などセラピー空間を理解していく過程が必要です。したがってセラピーが本格的に導入になるまで時間がかかってしまうのです。この期間に行われていることを「(精神療法の)枠をつくる」といいます。枠がつくられてしまえば遊びの場合と同じ様にセラピー空間に入っていくことができます。入ってしまえばその空間内での夢中の活動経験が本人の成長の糧となるところは遊びの場合と同様です。以下に小説においての、セラピー空間にすっと入っていく様子をえがいた例を挙げます。
 ”誰もいない待合室、そこでボーッと「今日は何を話そうかな」と思う。そう思っているだけで、考えがまとまるわけではない。それが不思議なことに、先生と向かい合い、先生が「どうぞ」というように私をみる。すると、次から次へと、私の口から言葉が出てくるのだ。「わたしってこんなにお喋りだったのか」と、自分でも驚くほどなのだ。”(作品:限界 文芸社 著者:東郷知可)
 上記では先の砂場の例と同じようなスムーズさでセラピー空間に入っていっています。夢中の効果で「統合」が緩められ、本人の驚くほどの変化が生じています。精神療法の枠がしっかりできている例だとと思います。クライアントだけでなくセラピスト側も枠やセラピー空間についてよく理解されているのでしょう。
 述べてきたようにセラピー空間は遊びの空間とかなり似ているので遊ぶこと(特に子供さんと)は治療者にとっても良いトレーニングになります。ですから遊戯療法をベースにそのトレーニングを積んできたセラピスト方たちは、どのスタイルの治療面接も上手な印象があります。長くなりましたが以上のなります。今回は精神療法と遊びというお話でした。

12/08/2025

<いきものハッピータイム>
精神科医を長くやっていて<ヒト>というのはとことん<悩むことを宿命としている生き物>だな考えるようになりました。火のないところに煙は立たずということわざがありますが、なんの問題もないところから煙を産み出しているような話もよく聞きます。他人から見ると滑稽なくらいに見えますが、当人たちは大騒ぎです。精神療法では本人たちの視点と他人の視点の両方をバランスよくもちながらケースに関わることが必要になります。また事態は複雑であって、何も問題がないように見えても実はその深層には分裂を抱えていることにも気がつくことも多い。そんな日常診療でよく出会う分裂の一つが<首から上の生活>と<首から下の生活>の分裂です。皆さんは人間は動物とは違うと自信を持って主張すると思いますが、首から下については他の哺乳類と大した違いはありません。人間は頭こそが人間の本体だと勘違いしてしまいます。小説「宇宙戦争」に出てくる頭が風船のように膨らんで細い触手をもついわゆるタコ型宇宙人のデザインは、本来は進化した未来の人間を想像して作られたデザインでした。映画「マトリックス」では人類は仮想空間内で複雑な社会を形成しながらも真実は培養液槽に閉じ込められていて肉体は機能していませんでした。こういった発想の背景には身体性の軽視が根深くあると思います。
 話を戻しますと頭と体の分裂は、精神科においてはコントロール(頭)できない、身体症状(体)という形で持ち込まれることあります。こういうとき、はじめはなんとかコントロールできないかという視点でがんばります。それでうまくいくこともあるのですが、前述の通りバランスをとるというのが精神科の持ち味なので「体(症状)のメッセージは何でしょう。」や「大型犬を一匹、幸せに飼える生活を想像しましょう」など持ちかけてみます。ここでは犬を例にあげましたが、なにもペットショップに行く必要はありません。大型犬というのは首から下のあなた、動物としてのあなたのことです。大型犬が暖炉の前であくびをする姿を見るとほっこり癒やされるのに自分が食後あくびをするとき、どれだけその体験を味わえているでしょうか?すぐに周りを取り繕おうとしていませんか?
 ペットショップに行く必要はないと言いましたが、この話がでたあと実際に犬を飼い始めた方がいます。この方は診察のときに、「首から上の話は・・」と会社の話を、「首から下の話は・・」と犬との生活の話を始めます。犬の散歩のときに出会った早朝の体験を情感たっぷりに語ることがあり、印象に残りました。首から下の生活を楽しんでいることを確信しました。
 別のある方と日中の眠気について話をしていたときです。昼食後の眠気を気にされていました。私は「お腹も満たされて、安全も感じられて眠くなるのは当然のことですよ いきものハッピータイムです」と伝えました。アイマスクをして15分程度、ハッピータイムを味わう、(午睡ともいう)を提案させてもらいました。もちろん減薬も合わせて選択肢にあげましたが、いきものハッピータイムという言葉がおもしろかったようで、昼休みの過ごし方としてこちらを採用してくれることになりました。頭中心から体中心の視点を移すことで気が付かなかっただけですでにある豊かさを発見することができます。いきものハッピータイムは何も食後に限定ということはないでしょう。頭の想像を超えて、いきものハッピータイムに私達は囲まれているのかもしれません。ピントが合わないだけなのです。また難しいもので、いきもの生活ばっかりでしたら文明や発展はなかったでしょう。つくづく社会生活といきもの生活の両方をバランスとりながら生きていくのが<ヒト>の生き方、宿命みたいのものと感じています。今回は以上です。

25/07/2025

<自分を映す鏡>
 診療の中でクライアントさんが自分を見つめ直したいおっしゃることがあります。名言はされなくてもクライアントさんは状況を変えたいと思っているし、その道筋を見出したいと思っているのではないでしょうか?今回は自分を映す鏡というテーマでお話します。
 自分を見つめ直すという言葉を聞いたときに反省するという言葉を同時に連想した方も多いのではないでしょうか。反省は英語で言うとreflectionといいますがこれには反射という意味があります。<自分>を反射させたものを受け取る。<自分>を客観的に見て、それを元に考えるなどを反省といいます。決して倫理的に自分を追い詰めることでありません。追い詰めることはモチベーションや覚悟にはつながりますが、どのように変わっていくかの方向性には関係しません。もちろん自分を見つめ直そうというモチベーションは必要なのですが、過度に倫理や正義感を持ち出すのは危機感ばかり煽って成果を産まないのでやめておいたほうがいいでしょう。次に問題となるのは主観と客観の問題です。自分の視点を主観というのであるから、自分が客観または三人称視点をもつというのは、(言葉遊びになりますが)厳密には不可能です。せいぜいミックスとして捉えた主観を主観が強いところと比較的客観性の強い主観に分ける作業をするくらいが限界です。これは作業ですから上手い下手があるし、トレーニングが必要になります。ここまでが前知識になります。
 前にも書いたかと思いますが?精神科は他の診療科と比べて主観だよりの診療科です。客観的な指標が乏しいのです。チェックシートや質問紙が客観的かというと血液生化学検査やMRIとくらべたらお粗末なものと考えます。しかし自信を持って診療したいので、我々は自分自身を精度の良い<ものさし>とするべくトレーニングを積みます。これは精神療法家を目指すのであれば特に重要です。トレーニングとして一番有効なのは症例検討会に自分の受け持ちケースを持ち込み、複数の同業者に聞いてもらい意見をもらうことです。初心者の人の中にはケースを出すモチベーションが低い人もありますが、これは初学者のときのチャンスだし、倫理的な要請でもあるのでぜひ取り組んでもらいたいです。次点としては自分が精神分析を受ける方法です。これはつよいモチベーションが必要なので一般向けではないかもしれません。もし受けるのであればユング派の精神分析をおすすめします(主観っ!!)
 ここまで自分を映す鏡というテーマで話をしてきました。すでにお気づきかもしれませんが<自分>を見つめ直すには<他人>が必要なのです。全身鏡の前に姿を晒すことに若干の抵抗を感じる人は多いでしょう。それが他人となると更に勇気が必要です。他人と大きく捉えましたが誰でもいいわけではありません。これは皆さんすぐ想像できると思います。安全な鏡としての他人はトレーニングを積んだ精神療法家が適任かと思います。スタートしては療法家との対話を通して気づきを得ていけば良いでしょう。急性期がすぎると次の段階として自分一人でもreflectionができるようにスキルを身につけていきたくなるものだと思います。その方法としては日記、夢の記録、自由画をおすすめしています。今回は親しみやすそうという点で日記の方法を説明します。まず上記の3つの方法は<書く>ことが共通しており、このことが非常に重要です。どういうわけかクライアントさんは書くことを避ける傾向があるので、日記はまず書くだけでもなんとか継続してもらって<書く>を定着させることを目指します。これだけでもクライアントさんはいろいろな気づきを報告してくれるようになります。これだけでも十分ですが、先へ進むには頃合いを見て日記の書き方の指導をしていきます。ポイントは①出来事と②それについてどう捉えたかを分けて書くということです。①は客観的な視点を鍛えます。②は認知とも言いますがこれが決まると行動が決まります。出来事と認知を分けて書く方法は日本語の文章としてはぎこちないものになりますが、自分を映す鏡をしては十分なツールだと思います。書きとられた②認知のパターンは自分の性格そのものと言ってもいいほどのクセが表現されているので、少しの気恥ずかしさをともないながら自分を知ることができるでしょう。こうして得た三人称視点(もどき)はあなたがたが社会の中で出会うあらゆる問題に対して有効な道しるべ示してくれると思われます。今回は以上です。

18/07/2025

<ゾンビタウン>
 フェンタニルの日本からの密輸が問題になり、アメリカでのフェンタニル中毒の街、ゾンビタウンの動画を見ました。衝撃を受けました。前かがみで立ったまま固まっていて、人目もはばからず手には注射器を持っている人たちが写っていました。まさしくゾンビタウンで映画のセットのようでした。世界で一番裕福で文明的なはずのアメリカの街の様子とはとても思えませんでした。日本では手術用のフェンタニルが品薄状態で日本には回ってこないでどんどんアメリカに流れているという話は聞いていました(もちろん密輸のルートではない)プラス密輸ということだと思うのですが、第二のアヘン戦争という言葉を聞き、人間のそこの見えない悪意を感じました。フェンタニルはとても重要な疼痛管理における薬物と聞いています。薬物中毒は薬物自体の問題というよりは使い方の問題といいます。薬物自体は道具なので道具の使い方が問題というわけです。わたしはフェンタニル自体は馴染みはありませんが向精神薬という依存の危険のある道具を扱う以上、安全な使い方を心がけないといけません。今回は向精神薬の安全な使い方について二点を話していきたいと思います。
 <目的をはっきりさせる>道具のであることを考えれば当然ですが、どうして薬を飲んでいるかの目的をはっきりさせることが必要です。医学では主訴をはっきりさせるといいます。疼痛の目的、睡眠の改善、めまいや慢性刺激との距離感を取るため色々考えられます。向精神薬はほぼどんな場合でも役に立つ使い方ができます。だからこそ使用の目的が曖昧になります。精神科医の方の場合は担当の患者さんのはじめのカルテを見直してみるいいと思います。みなおしてみると初診のときの悩みは随分解決していることに気がつくのではないでしょうか。この傾向は心因の場合は特に顕著です。めまいを主訴に来院された方ですが、最近はめまいの話は話題に上がりません。特別な心境の変化が報告されたわけでもありません。心因は本人と環境との間に原因があるので、状況は常に変化しています。それに反映して表面的な症状は割と変化しやすいです。ですからどうして薬を飲むようになったかを考えてもらえると今、それが必要かをつねに考えるようになってきます。医師と相談して服薬の継続について話し合うといいでしょう。
 <医者と一緒に決める>中毒または依存症の方は一人で決めるということを手放そうとしない。こういう傾向があります。自分でやめられるとか決められるとかおっしゃります。結果的にはやめることはできませんがそれでも自分でやめられるという考えを手放したがりません。これは依存症治療を難しくする割と核心的な問題だと考えています。心理学者のカール・ユングはこれについて「患者は(自分でコントールできるという考えを)絶望する必要がある」といっています。インパクトのある言葉ですが、絶望するからこそつながれるものがある。それが徹底的に治療に必要だと言うようなことをあとに続けています。わたしはこの考えは仏教において親鸞の「他力」の考えにつながるように感じています。依存症治療は宗教性を扱うことが多くなるのも無理からぬことだと思います。話は大げさになりましたが、ややこしい依存になる前に手を打とうというお話です。そのためにおすすめしたいのは、薬は医者が管理する。手持ちを作らないということです。小児科のママさん文化かと思ったりしますが薬を手持ちで持っていたいという希望をする方は割といらっしゃいます。他科のことはわかりませんが、向精神薬の頓用という使用法は薬物依存になるリスクをとても上げます。ですので慎重になるべきです。自分に対して客観的になるということは言葉遊びを抜きにしても不可能です。したがっていずれは乱用になるでしょう。ここで自分では乱用と思わないことが悲劇的です。以前<わたしの減薬戦略>でも話しましたが定期的に通院してもらうこと。つまり薬が切れたので来ましたというような診療の設定は避けることも<医者と一緒に決める>ということに含まれています。
 薬自体はいいも悪いもなくただの道具ですから悪いのは使い方になります。わたしは今日挙げた二点を崩さないような診療を保っています。その効果は出ていると思います。ゾンビタウンの光景はショッキングではあります。それを受けて自分にできることは、薬については枠を壊さない診療を守って行くことだと思いました。是非参考にしてみてください。今回は以上です。

11/07/2025

<悪ふざけはたのしい>
日曜日の出来事です。猛暑であったのでビニールのプールを出すことにしました。プールといっても流石に狭いので、浸かるというよりは水遊びをしようということになりました。うちにはこういう場合に備えて金魚すくいで使うポイが買ってあって、それをヘアバンドで各々頭につけ、水鉄砲で撃ち合うという遊びをすることになりました。わたしは、ほんの思いつきでポイに元からついている紙を外し、丁寧に切り抜いたキッチンペーパーと入れ替え、ヘアバンドにセットしました。子供3人とわたしの水鉄砲戦いが始まると、予想はしていましたがお父さんの無双状態になりました。流石に異変に気付いた長男に追求されたので、仕掛けを白状すると子どもたちの目がキラキラ輝き始め、そこからポイの改良競争が始まりました。ポイを重ねる。裏にセロファンテープをはる。オリーブオイルを塗って乾かすなど。。自分の考えた最強ポイを頭につけての激しい水鉄砲戦いを行いました。優勝は長女の「レジン塗布ポイ」で、これには参りました。わたしのキッチンペーパーポイも最強だったのですが、枠に貼っている木工ボンドが水で溶けてしまい敗れました。楽しい日曜日でした。
<トリックスター>神話やおとぎ話にでてくるいたずら者をトリックスターと呼びます。ユング心理学ではトリックスターはこころの中の住人と考え、現代社会においても陰になり陽になり活躍しているという見方をしています。トリックスターの性質としては固定した、動きのない状況をいたずらのようなやり方でかき回すことです。この動きがうまいこと働くと創造性につながりヒーローになります。しかしルールを乱したということが強調されると途端に悪者にされてしまいます。トリックスターの創造性と破壊性は紙一重の違いです。今回のわたしのポイの不正も「ずるいパパとは遊ばない」という結末になっていたかもしれません。集団の中でトリックスター性を(無自覚に)発揮したために、職場や家族内で悪者にされてしまっているという方は少なくありません。トリックスターは厄介者ではあるのですが、硬直した状況を変えるべく最初に立ち上がってくる機能でもあります。精神療法に相談にこられる方は状況を硬直して動かしがたいものと捉えている事がほとんどです。そういった人としばらくあっていると、トリックスターが動きを見せるときがあります。トリックスターの動きをいち早く捕まえて生活に反映することが精神療法家の腕の見せ所でありましょう。
 さてトリックスターを創造性の方に活躍させるにはいくつかポイントがあります。わたしが重要視しているのは2つあって、一つはユーモアです。トリックや騙し、不正を包む役割です。ユーモアもユーモアセンスと言われるくらいセンスが問われます。なかなかに難題です。感情機能が関わってくるように思いますが、感情機能については紙面が限られているのでここでの説明は省きます。もう一つは「遊び」の雰囲気です。遊びはトリックスターを呼び込む設定として優秀です。では「遊び」が成立するには?これは実のところ精神療法が成立する条件と非常に関連があります。これはわたしの非常に関心のある話題ですが、これも今回は説明を省きます。宿題にさせてもらってそのうち書くと思いますのでお待ち下さい。さて自分の心のなかに住むトリックスターをうまく活躍させるにはトリックスターとの距離感が大事です。トリックスターに乗り移られた様になっては面白くありません。今回のプールの件で言えば、仕込みのポイを思いつき実行し、子どもたちのトリックスターに火がついたところで自分は静観にまわり、木工ボンドが溶けたところで潔く引いて行く。こんな距離感がわたしの好きなトリックスターとの関わり方です。ほんの一例ですが参考にしてみてください。今回は破壊か創造か心の中の道化師、トリックスターのお話でした。今回は以上です。

04/07/2025

<藤野園を惜しむ>
私が往診に行っていた施設に藤野園といういわゆる老人ホームがあります。その老人ホームが6月いっぱいで閉園になりました。時代の流れもあり仕方ないことですが思い出もあり書いてみたいと思います。藤野園さんは特殊な老人ホームで行政処置により入所が決まる老人ホームです。本人または家族が希望して入るタイプの老人ホームではありません。大抵は保護されるような形で入所になります。そういう人の中で精神科医療の対象になりそうなケースがあると相談が来て、私が診察・治療という流れになっていました。入所の経緯が経緯なので皆さん社会的に孤立した方が多く、そういった人生を長く過ごしていると穏やかに過ごすということがイメージしづらくなってきます。こういう理由があるので一般的には落ち着かないケースが多いのです。しかし難しいケースが多いにも関わらず藤野園からのご紹介のケースは比較的速やかに問題が解決するケースが多かったです。(解決は言いすぎかもしれません。介護範囲に収まってくるというくらいです。)薬物療法への反応がすなおで計画が立てやすかったです。もちろん病気が認知症なら進行していくのですが、いわゆる周辺症状というのが派手にならない印象でした。特筆すべき特徴として、皆さん(圧倒的にといってもいいくらい)長生きでした。薬物療法の反応の良さ、または認知症の周辺症状の程度は患者さん側の要因が大きいです。言い直すと薬への反応は薬の性質と本人の状態の相互作用だし、周辺症状は本人の中核症状と周りの環境の相互作用の結果です。短く言うと藤野園さんは利用者さんが安心して過ごせる「生活の場」を提供できていたのだと思います。これからの高齢者予備軍(もちろん私も含まれます)の人たちは最終的な「生活の場」はどこになるのか、はっきりとイメージできないでいます。また行政もイメージを提供できていないと思います。決まっていないからこそ個別に悩むことになります。「わたしは将来どこで暮らすことになるのか?」というのは漫然を広くみなさんが抱えている心配事だと思います。藤野園さんの経験から最終的な「楽しく暮らせる生活の場」のノウハウ、もしくはテクニックが他の施設にも浸透していけばいいと思っています。
 藤野園さんはその歴史の積み重ねもあって利用者さんが安心して暮らせる状況を提供できていたようです。藤野園さんからの診察の依頼は一見厄介なケースのように見えて、とりかかってみると素直な経過で、急性の状況をあっさり抜けるので私としては楽ができるケースが多かったです。そういった意味で10年以上かかわらせてもらって感謝しています。ここで得た経験を活かしてこれからも施設臨床の工夫を続けていきたいと思います。藤野園さん、長い間お疲れさまでした。また職員のみなさま、次の職場でもこの業界であるかぎりは良質な経験を積んでいると思いますので自信を持ってお勤めください。今回は以上です。

27/06/2025

<AIと精神療法>
私には2人の精神科仲間がいます。特に決まりはありませんが誰かが声を上げて、時々食事会が開かれます。お酒も飲まないし、割と締めにスイーツを堪能するので奥さんからは「女子会」と呼ばれています。いい歳したおっさんの集まりで、話題も「精神科」の話ばかり、、華がないですね。その女子会での出来事。
A氏「最近、自閉症圏の(パーソナリティを持った)人がAIチャットに癒やしを求めるケースが印象に残ったのだけどどう思う。俺とかがなにか言っても反発するのにAIチャットだとスーッと受け入れていくみたい。俺達の仕事もAIに置き換わっていくのかしら」と話題が振られました。様々な職業が将来AIで事足りていくのではないかと最近よく話題になります。しばらくあれやこれやと話し合いました。
B氏「AIには体がない。同じ体を共有しているからこそセラピストの言葉にリアリティーがでてくるように思う。例えば私は100km走れる。その私が大変だけど走れますよといったときと、AIがあなた運動不足だから運動しましょうと返してきたとき、やっぱり違うと思う」
私はB氏の言葉が刺さって、そのとおりだなと思いました。精神療法の大事な要素に共感ということがあります。共感の定義は「他者の感情体験を理解し、かつ追体験すること」でありますがポイントの「追体験」は相手の感情生活を<追い>はするもののスタートラインはあくまで自分の<体験>がベースになっているということ、これが非常に重要です。話は横道にそれますが10年以上前のある講座で「相手の話に共感するときに自分の体験も意識しておくことが、安全に共感するためのコツ」という話を聞きました。例えば母子関係が語られている場でセラピスト自身の母子関係も意識に上げておくというようなことです。<追い>はするもののスタートラインはあくまで自分の<体験>がベースということを強調されているのだと思います。
 話を戻しますが、B氏の言いたいことも共通していると思います。逆を言えば自分が<体験>していないことをクライアントに勧めているのであればAIでも構わないということになります。生活習慣病的な(外見の)医者が「あなたには運動が必要です」というときは返ってAIのほうがマシということになるでしょう。最後のは悪ふざけですが、心には投影という機能があって「人のふり見て我が身を直せ」というのは心の世界ではよく出会う現象です。
 B氏の見解に私はすごく納得したのですが、次に考えたのは<体を共有したモノ同士でないと変化は生じないのか?>ということです。たしかに精神療法において重要である共感は人間同士でないと成立しません。ではペットは?犬や猫に癒やされるといいますし、ただの愛玩という枠以上の精神療法的な効果も聞かれます。では哺乳類だったらいいの?ワンちゃんたちは追体験してくれているの?そもそも精神療法は悩みの解消を目指すものですが、仏教において悩みの究極の解消である「悟り」はお堂で坐禅をくんで得られたり、時に雷の音で悟ったりと無生物との関係でそこに至っているケースが割と多いように思います。悟りなんて大げさにしなくて、私の診療所でも「家に帰ってもう一度考えて・・・」なんて心境の変化を話してくれるケースは多いのです。だとするとAIでだめな理由はなくなるか・・こんなことを考えていました。
 これに似た議論は昔あって、私が留学していた頃、テレビ電話での心理面接が話題になっていました。ルールとしては解禁する方向だったけどもテレビ電話で心理面接のダイナミズムが出せるのか(出せないだろう)といった冷ややかな周りの見解が多数だったことを覚えています。しかしいまとなっては普通のことのようです。AIの精神療法ですが、はたして将来我々の仕事を奪うことになるのか?技術の進歩を楽しみに待ちたいと思います。以上です。
<告知>
私の奥さんが私の記事を読みやすい形で編集し動画投稿したいということで、ユーチューブで投稿を始めました。もしよかったらチェックしてみてください。堤ケ岡メンタルクリニックで検索をおねがいします。

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